津軽三味線の歴史と概要


津軽三味線とは

現在では、日本のみならず世界から津軽の伝統音楽として知られている津軽三味線。
しかしその歴史は意外と浅く起源は明治初期、
「津軽三味線」という呼称で全国にその名が知られたのは戦後、高度経済成長期のこと。
それでは、津軽三味線はどのような環境で生まれ、どのように全国に広まっていったのであろうか。

津軽三味線とは

太棹(ふとざお)※の三味線で、胴部分には犬の皮が用いられる。スピード感あふれる撥(ばち)さばきで、即興で弾く奏法が特徴。津軽三味線には「叩き三味線」と「弾き三味線」の系統がある。

叩き三味線

打楽器のように激しく叩きつける奏法。津軽三味線独自の奏法。

弾き三味線

叩き三味線とは対照的に、物静かでしんみりとしたメロディを聴かせる奏法。

※ 三味線の種類(細棹・中棹・太棹)の中の一つ。棹の太さによって3種に分けたうちの最も太いもの。胴も大きく、また弦も太い。
三味線種類図

津軽三味線の歴史

津軽三味線発祥の地、津軽

西を日本海、北を津軽海峡、東を八甲田山脈、南を白神山地に囲まれ、隣接地域とも地理的な隔たりがある地域。
そして冬には圧倒的な降雪。
しかし、その閉ざされた環境で、津軽弁をはじめ津軽民謡、ねぷた・ねぶた祭りなど独自の文化がつくられていった。
津軽三味線もそのひとつである。

発祥は、視覚障害者のための福祉制度

藩政時代、目の不自由な男性が所属する全国組織「当道座(とうどうざ)」が存在し、この座に属する下級僧、座頭は東北地方の方言で「ボサマ」と呼ばれた。
また、女性のための「瞽女座(ごぜざ)」という組織も存在し、彼女たちは「ゴゼサマ」と呼ばれた。
そして、津軽藩にはこの当道座の支部に相当する組織があったのである。
目の不自由な少年は、14〜15歳になると当道座に入り、琵琶、琴、三味線、鍼灸、按摩などを教えられた。
当道座に加入した人は、「運上」という雑税徴収の特権が与えられ生活だけは保証されていた。

当道座の解体、門付け芸人へ

明治4年に廃藩置県が実施されると、弘前藩は廃止され、藩政時代の数々の特権も撤廃された。
それと同時に、当道座も解体。それまで保護を受けていた当道座の人々は途端に生活に困窮した。
そうして、これら多くの人たちは門付け芸人にならざるを得なかったのである。
門付けとは、人家の前で芸能を見せ、お金や食料などをもらい受けることである。
そのためにはまず、強烈な音を発し、家の中から人を出させる必要があった。
家から人が出てくると、その場の雰囲気に合わせて芸の内容を作った。
こうして、強烈な印象を放つ音色と高い即興性を持った津軽三味線の奏法が育まれていった。

津軽三味線の元祖 仁太坊

津軽三味線の研究者である故・大條和雄氏によると、津軽三味線の元祖は秋元仁太郎(あきもと にたろう)〈通称:仁太坊(にたぼう)1857(安政4)~1928(昭和3)年〉という人物である
仁太坊は門付け芸人として三味線を学び、向上心と好奇心でメキメキと頭角を表し人気者となった。
当時、門付け芸人は各地を歩き回るため、より軽い細棹の三味線が主流であった。ところが仁太坊は、ダイナミックで迫力のある演奏をするために、持ち運びに不向きではあったが、太棹の三味線を自らの芸に取り入れたのである。
これが現在の津軽三味線へとつながる新たな演奏スタイルを生み出した。
仁太坊は、生涯を通じて6人ほどの弟子をとった。そして、そこから始まる系譜が、今日の津軽三味線奏者へと引き継がれることになる。

ホイド芸として蔑まれた津軽三味線

現在では、津軽の伝統音楽として世界からも絶賛される文化となった津軽三味線。
しかし、明治・大正期の津軽では、三味線は「ホイド芸」として見下されていた。
ホイドとは「乞食、欲張り、卑しい人」等を表す青森・北海道の方言である。
仁太坊や、仁太坊の弟子たちが活躍してもなお、津軽では三味線奏者をホイド芸とする風潮は消えなかった。
三味線奏者を親族から出すことは一家の恥とされていた。
そういった風潮のなか、時代は第二次世界大戦へと突入していった。

全国への広がりを見せる津軽三味線

戦後復興が落ち着き、高度経済成長期に入ると、各家庭にテレビが普及するようになった。
芸能界が活気付いているなか、仁太坊の弟子である白川軍八郎の一座で三味線を学んだ三橋美智也(みはし みちや)〈本名:北沢美智也1930(昭和5)~1996(平成8)年〉が上京し、民謡で鍛えた声を武器にいくつもの曲をヒットさせた。
さらに三橋は自身のコンサートで津軽三味線を披露、師匠を東京に招いて日本劇場でリサイタルを開いたのだ。こうして、東京でも徐々に津軽三味線の存在が知られるようになる。

三橋美智也(みはし みちや)

高橋竹山の誕生

一方津軽の地では、のちに津軽民謡の父と呼ばれる成田雲竹(なりた うんちく)〈本名:成田武蔵1888(明治21)~1974(昭和49)年〉の民謡運動が広がりを持つようになっていた。
雲竹は、三味線や太鼓の伴奏をともないながら得意の唄により、津軽民謡の普及に尽くした人物。そして1950年ころ、それまで門付けやマッサージ師などをしながら暮らしていた高橋竹山(たかはし ちくざん)〈本名:高橋定蔵1910(明治43)〜1998(平成10)年〉を三味線奏者として使うようになった。
雲竹が日本全体の民謡界をも代表する重鎮として全国的な活躍をするなか、伴奏する竹山の三味線が、東京のレコード会社の目にとまり、1963(昭和38)年『源流・高橋竹山の世界〜津軽三味線』(キングレコード)がリリースされた。
それまで民謡の伴奏としかみなされていなかった三味線にスポットをあてた革新的なレコードだった。
こうして、日本の音楽界に「高橋竹山」という三味線奏者と「津軽三味線」の名が登場したのである。このアルバムは、その後2年間で7万枚売れたヒット作となった。そしてこれを皮切りに、様々なメディアが竹山を取り上げ、津軽三味線は日本全国はもとより世界中に知られるようになったのである。

成田雲竹(なりた うんちく)

高橋竹山(たかはし ちくざん)

参考文献:
季刊 民俗学 135.2011冬『弦の響き 津軽三味線の形成と現在』著 冨田晃
『津軽三味線の歴史』著 大條和雄